最も有名なシンバル”Zildjian”の歴史 

先日店頭にて、シンバルをごっそり入れ替えたのでしょうか、大量のシンバルをまとめて買取をさせていただきました。
なんと、そのほとんどがZildjian(ジルジャン)シンバル!
Zildjianといえば、SABIANと並んで打楽器奏者以外にも幅広く知られている最も有名なシンバルメーカーで、著名な愛用者もここでは挙げきれないほどです。

そんな皆さんご存じのZildjianですが、その歴史は1600年代と古くSABIANやIstanbulなどとも深い関わりを持っていることはご存知でしょうか。

今回は、最も有名なシンバル”Zildjian”の歴史やSABIANやIstanbulとの関わりをご紹介したいと思います。

Zildjianのはじまり

Zildjianシンバルのはじまりは今から400年近く前、1600年頃と言われており、オスマン帝国の首都コンスタンチノープルが舞台となります。

トルコ皇帝に仕える錬金術師アベディス1世(Avedis)は、1618年に合金の技術を使って錫、銅、銀などを材料に、当時では画期的とも言える音色と耐久性を持つシンバルを開発します。
(このアベディス1世の生み出したシークレットアロイ(秘密の合金)の製法は、一子相伝として代々受け継がれていくこととなります。)

皇帝御用達ののシンバル職人となったアベディス1世に、皇帝よりアルメニア語で「シンバル職人の息子」を指す”Zildjian”(ジルジャン)の名が授けられ、1623年に皇帝の元を離れシンバルの製造をスタートしました。

その後、アベディス・ジルジャンと一族は、トルコ コンスタンチノープルの地で代々シンバルの製造を続け、ヨーロッパ各地で高い評価を得ます。

K ZildjianとA Zildjian

そして時が流れ1865年、この世を去ったアベディス2世にはハルーティアンとアラムという2人の息子がいたが、シンバル製造技術を受け継ぐには幼かったため、アベディス2世の弟であるケロップ(Korepes)が受け継ぎK.ZILDJIAN&Cieの名でシンバル製造をおこないました。

その後、成長したアベティス2世の次男アラムがシンバル製造技術を継承し、A.ZILDJIAN&Cieとしてシンバル製造を開始します。

ケロップの死後ミカエルがK.ZILDJIANを継承、コンスタンチノープルでK Zildjianシンバルの製造続け、一方のアラムはブカレストに工場を移しA Zildjianシンバルを製造をはじめ、ジルジャンは”A”と”K”2つに分かれていくこととなります。

アメリカへ

1927年、子供がおらず後継者を探していたアラムは、兄ハルーティアンの息子アベディス3世を後継者に指名が、アベディス3世はアメリカで成功していたため、後継者となることに難色を示します。

アラムの説得の末、アメリカに工場を移すことを条件に継承を受諾。
1929年、アメリカの地に”Avedis Zildjian Company”を立ち上げます。
(これが現在のジルジャンですね。)

そしてアベディス3世の息子アーマンド(Armand)へと秘伝は継承され、次男のロバート(Robert)を責任者としカナダに新工場を設立します。

アーマンドはジャズミュージシャンたちと協力し新たなシンバルの開発を繰り返し、ドラムセットで用いられるハイハット、ライドを発明、商業的な成功だけではなく音楽的にも大きな功績を残しました。

こうして、アーマンドとロバートの活躍によってA Zildjianは大きく飛躍しその地位を確固たるものとしたのです。

K Zildjianの最後

K ZildjianはアメリカのA Zildjianの成功に習い、ジャズ向けのシンバルを開発していました。
(この頃の製品は現在では「トルコK」「オールドK」と呼ばれ、熟練の職人によるハンド・ハンマーの技術による豊かなサウンドは高い人気を誇り、ヴィンテージシンバルとして高値で取引されています。)

そんな中、A Zildjianロバートがカナダに大量生産に向けた近代的な工場を設立した1967年頃、K ZildjianはA Zildjianに買収されることとなります。
イスタンブールから一部の職人が移り、カナダ工場でのK Zildjianが開始されます。

1977年、アベディス3世に代わってアーマンドがAジルジャンの社長に就任。
そしてトルコの工場は閉鎖され、1865年から続いた伝統の本場トルコのK Zildjianの長い歴史は幕を閉じます。

カナダ工場に統合されたK Zildjianでしたが、1979年にアベディス3世この世を去り、相続者のアーマンドとロバートの間で会社が分割され、長男のアーマンドがZildjianの名とアメリカ工場を、次男のロバートがZildjianの名前を使わないことを条件にカナダの工場と職人を相続します。

分裂後

アーマンド率いるZildjian社は、アメリカ国内でK Zildjianブランドシンバルの製造を開始。
その後も、アメリカンジルジャンの伝統を守る”A Zildjian”、ヴィ二ー・カリウタとのコラボレーションで生まれた”A Custom”、ビンテージAを再現した”A AVEDIS”、K Zildjianに個性的なアレンジを加えた”K Custom”、オールドKを探求した”K Constantinople””K Kerope”、気軽にジルジャンサウンドを楽しめる”I Family””S Family”など数多くのラインナップ発売し、常に業界のトップを走り続けています。

2002年にアーマンドが死去、娘のクレイギー(Claigie)とデビー(Debbie)が秘法を受け継ぎ、社長にはクレイギーが就任しています。

一方カナダ工場を受け継いだロバートは、3人の子供「Sally」「Billy」「 Andy 」の名前からSABIANと名付けたブランドを立ち上げ、1982年から生産を開始します。
伝統的なB20ブロンズを採用したシンバルとしてHH(Hand Hammered)とAA(Automatic Anvil)という2つのシリーズを発売し、あとはご存知の通り。
創業間もないSABIANはまたたく間に世界中に広まりZildjian、Paisteと並ぶ世界3大シンバルメーカーとなりました。

そして2013年、SABIAN創業者のロバートが死去、息子のアンディがSABIAN社の社長に就任しています。

残った職人たち

実は分裂していたのはアーマンドとロバート兄弟だけではありません。

1977年、トルコのK Zildjian工場が閉鎖され職人たちはカナダへと移りましたが、1部の職人はトルコの地に残りました。
その中の、アゴップ・トムルシュク(Agop Tomurcuk)とメメット・タンデガー(Mehmet Tamdeger)はトルコに残った職人たちを集め、1980年にZilciler Kollektif Şti社(シンバル職人集団の意)を立ち上げます。

彼らは良質なシンバルを製造し1982年には海外にシンバルを輸出するまでに成長、社名を”Istanbul”に改め有名となります。

1996年、アゴップの死去をきっかけに、メフメットは自らの名を冠した”Istanbul Mehmet”と社名を改める。
これに反発したアゴップの遺族は職人を集め独立、”Istanbul Agop”を社名とします。
こうして、Zildjianから派生したIstanbul社も分裂してしまったのです。

ベース、ドラム、アクセサリ担当:前田

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